1月6日
/重要な論述/
1949年1月6日から8日まで毛沢東は主宰して中共中央政治局会議を開き、現在の情勢と任務を討論した。会議で採択された毛沢東起草の決議「現在の情勢と党の1949年の任務」。決議は、平津、淮海、太原、大同諸の戦い後、国民党の軍事主力が殲滅された点について、国民党政権は基本的に我々に倒されたと指摘した。私たちはすでに全国的に国民党に勝つ自信がある。一九四九年と一九五〇年は中国革命が全国的に勝利する2年になるだろう。私たちは革命を最後までやらなければならず、中途半端にしてはいけない。また、1949年には反動派代表が参加していない中国人民革命の任務遂行を目指す民主諸党派各人民団体の政治協商会議を招集し、中華人民共和国の成立を宣言し、共和国の中央政府を構成し、共同綱領を採択しなければならないと指摘した。いくつかの大野戦軍は渡江南進の諸準備を完了した後、手順を踏んで南へ着実に進出した。
/党史回顧/
1941年1月6日に国民党は国内外を驚かせた皖南事変を起こした。1940年10月19日、何応欽、白崇禧は国民政府軍事委員会の正副参謀長の名義で、黄河以南に抗日を堅持する新四軍、八路軍を1カ月以内に黄河以北に撤退させた。中国共産党はこのような無理な要求に反駁する一方で、抗戦の大局を守ることから出発し、皖南の新四軍を江北に配属することを承諾した。1941年1月4日、新四軍軍部と所属する支隊9000人余りが雲嶺を出発して北に移動した。6日、安徽省南泾県茂林地区に部隊が到着した時、国民党軍8万人余りの待ち伏せ攻撃を受けた。新四軍は7昼夜奮闘し、兵糧尽き、約2000人が包囲を突破したほか、大部分が壮絶な犠牲になった。軍長の葉挺は国民党軍と交渉中に拘束され、副軍長の項英、副参謀長の周子昆は包囲を突破した後、不幸にも裏切り者に殺害され、政治部主任の袁国平は犠牲になった。これが国内外を驚かせた皖南事変である。皖南事変発生後、国民党は情報封鎖を企て、皖南事変の真相を暴露する文章の新聞掲載を禁止し、周恩来は『新華日報』に憤然として「千古奇冤罪、江南一葉、同室操戈、何を急ぐのか?!」と題する言葉を書いた。